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2014年4月23日水曜日

ロシアとウクライナ:ソヴィエト・ロシアによる間接的虐殺「ホロドモール」

「ホロドモール」
割と知られてないかも知れませんが
ウクライナとロシアの関係を語る上で絶対に切り離せないものです

ここまでの記事を読んでいなくても分かるように書いています





1922年、ウクライナはソヴィエト連邦の構成国となった。

帝政ロシア時代の農奴制等の弊害もあって、
工業化遅れるソヴィエト・ロシアにとって
痩せたロシアの土地と比較して土壌の豊かなウクライナの穀倉地帯から収穫される小麦の輸出は貴重な外貨獲得手段であった。

結局、外貨のためにやってることは帝政ロシア時代と変わらなかった。


しかし、ロシア革命後に発生した資本家、地主等のロシア内戦とそれに伴って実行された
「戦時共産主義政策」は農民からの食料の強制徴収を行い、
戦争遂行のため軍への優先した食料と物資の再分配によって
都市では食料が不足。「買い出し」と「闇市」が必要になるという何処かで聞いたような状態となった

更に、当時の労働者層は農村から出てきた者も多いこともあって
農村に帰る事パターンが多く都市からの労働者が流出。
工業生産は革命前の20%まで落ち込んでいた。

これでは農作物以外の輸出など出来るわけもない。



戦時経済によって疲弊しきったソヴィエト経済を改善するため、
今度は「ネップ」と呼ばれる部分的な資本主義の政策が取られたが、

資本主義に基づく新たな資本家と自分の土地を所有する富農「クラーク」などが生まれ
社会主義の前提を崩れさせる「貧富の差」が発生した。




レーニンの死後、ヨシフ・スターリンがソヴィエト連邦の最高指導者となると、
社会主義体制に基づいた計画経済案「第一次五カ年計画」が策定された。

五カ年計画には「農業の集団化」という内容が含まれており、
これはネップによって復活した農産物の投機的売買を撲滅し、
土地、農機具、家畜等を集団で共有することで農民が勝手に市場に農作物を売却することを防止し
政府が独占的に農作物を買い上げることによって
国内で生産される食料を政府が監視できる状態にすることを目的にしたもので、

都市に対する食料供給と価格を安定させ、食料の流通における非効率的な要素を排除できるとされた。

…とされるが、実際のところは
極端な工業化政策によって都市に集まった労働者に安価な食料を提供するために
政府が穀物の市場価格を安く抑えたため
農民が出し惜しみをした結果、政府は都市に対して食料を供給することが出来なかったため、
半強制的に穀物を徴収するために農業の集団化を進めたのだった。



当然、これらの政策はウクライナでも実施された。
土地が豊かな分、ウクライナでは自分の土地を保有する農民も多かったため
集団化はあまり進まなかったが、
より多くの食料を管理したいソヴィエト政府は強制的に農業の集団化を進めた

当然、反発する者は多かったが
農業の集団化に反対する者に対してソヴィエト政府は彼らをネップ期に富を手にした「富農」であるとした。
この反対者達に関してスターリンは後年こう語っている
「(抵抗した農民の数は)ざっと1000万人くらいでした。抵抗する農民どもには極北の土地をくれてやりました」

実際の反対者達の数は定かでないが、彼らが文字通りシベリアに送りにされたのは事実である
因みに、そのうち処刑されたのは資料に残っているだけで2万人ほどになる。


しかし、「富農」だと言われた農民は勤勉な農民であることが多く、
非常に効率的で効果的な農業と長時間の過酷な労働の末に多くの農作物を生産したために
それ以外の農民より裕福な生活を送っていた訳だが、

集団化制作によって富農が弾圧されたため農業に熱心に取り組む人間がいなくなり、
政府が生産する作物を指定し、独占的に不当な低価格で買い上げるため
農民の労働意欲は低下しソ連全体の農作物生産量そのものが下がるという皮肉な結果になった。


以上の理由からウクライナで食料生産量が低下したが、これに関してスターリンは
ウクライナの農民が食料を隠しており、集団農場で食料を隠すことを『窃盗罪』とし、
その刑罰を厳しくすることでこれを改善できる
と、考えたのである


そのため、集団農場に所属する農民は政府や農場に秘密でパンの取引や落ち穂拾い、穂を狩ると
『人民の財産を収奪した』とされ、10年間の懲役刑…もとい強制収容所送りとなった
1933年春には家畜用の飼料ですら『悪用』すると強制収容所に送られると言われた。

また、農作物の徴収を強制的に行い、
生産量の何割、というものから最初に決められた一定量を徴収する形に変化したが、
都市の労働者に食料を供給するため、不作でない年でも生きて行くのに最低限の量だけが農民の手元に残るような量を徴収された。

1932年末、ウクライナで国内パスポート制が導入され、農民の移動の自由は制限された。
農民は村や集団農場に縛り付けられ、さながら農奴のように移動が出来なくなった。

また、農作物を確実に回収するため監視のため都市の労働者や共産党メンバーから構成される「オルグ団」が作られ、
農村や集団農場を巡回し監視した。

学校教育等を利用して子供にも監視させ、肉親を告発した者には
食料や衣服やメダルを与えた。





(この親を告発したという少女は親戚に殺されたという出所不明の話を見たことがある)



共産党メンバーは家々を周り、食卓からパンを、鍋から粥まで奪っていったと言われている


(画像を多めに用意しようと思ったのですが、キツい画像が多いので省略します)
(探せばかなりの枚数があります)
穀物類の強制徴収
1932年は欧州の広範囲で凶作であったが、他の国では特に問題にならない程度のものだった。
他国では目立った死者なんて出ていない。

しかし、ソヴィエトは違った。
食料を没収された農民はジャガイモで飢えをしのぎ、鳥や犬や猫やドングリまで食べた。
それでも食料が足りない農民たちは病死した馬や人間の死体を掘り起こして食べた結果
多くの人間が病死し、その死体を食って体調を崩し病死するという有り様だった。
果てには(生きている)赤ん坊を食べたことさえあったという。

通りには死体が当たり前のように転がり、所々に山積みされ腐敗臭が漂っていた。
死体処理のための労働者が都市から送られてきたものの、一向に死体は減らなかった


因みにこの頃のスターリンは
料理が気に入らないという理由で皿ごと床にぶちまけたり、
味が気に入らないからと食わずに捨てさせて作り直しを要求したり
数多くの作家を招待して高級食材を振る舞う運河の船旅を行ったりなどしていた。
わかりやすい独裁者である。



ソ連政府は死体の山が発生しても飢餓の事実を認めなかった。
輸出用の穀物を放出すれば農民の死は防げるはずで、他国なら普通そうする。

しかし、国外に対して世界恐慌の影響を受けない5カ年計画は成功していると宣伝していたため、
ソ連としては五カ年計画が原因になった飢餓の存在を認めるわけには行かなかったのだ


結果として、500万人以上の農民が餓死し、
ウクライナの農業人口の二割が死亡した。

彼らがなんの為に死んだかと言えば、ソ連の工業化のためである
都市の労働者を養えなければ工業化は進まないが、
農民にも労働者にも十分な食料が与えられるような工業化では西欧諸国には追いつけない。
そう考えられた結果、「人命を消費して」急速な工業化を行ったのである。


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1 件のコメント:

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